武田流 茶之湯・禮法
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茶の木が初めて我が国に移植されたのは平安時代で、延歴24年(805年)伝教大師が渡唐して茶の実を持ち帰り、近江国坂本に植えたのが最初である。
しかしその後遣唐使が廃され(838年)茶の輸入が止まり、製茶の技術が無かった為茶を飲むことが絶えた。
その後宋との国交が復活して禅僧の入宋が始まって第一に入宋したのが栄西禅師であった。
建久2年(1191年)に茶の実を携えて帰国し、そこから栂尾高山寺の明恵上人に茶の実を送り、上人は栂尾に試植し、さらに宇治に移植した。
喫茶の流行は、栄西が鎌倉に移ってから、禅僧と交渉の多かった武家問から始まったのである。
それに用いる器物は中国から輸入された。
足利時代になると一般人にも流行していたようである。
武家階級においては、闘茶又は寄合茶と称するものであり、庶民階級に於いては一服一銭の立ち売りの茶となった。
武家の茶会の様子は、茶会を催す場所を会所と称し、この会所は客殿と喫茶の亭にわかれている。
まずは客殿に集まり、山海の珍味を取り揃えた食事の饗応をうける。
食事が終ると一同は席を立って庭園を逍搖する。
この間に主人は喫茶の亭の準備をする。
この亭は後生の茶室とは異なり、カラリと明るく広い座敷で、内部には、まず正面に仏画を掛け、左右に唐畫(からえ)が掛けられる。
そして周囲の障子には中国伝来の名畫(めいが)が飾られる。
さて、仏画の前には卓を据え、その上に火器や香炉が置かれる。
さらにその前には、客のため胡床がおかれ、別に主人の座として竹製の椅子が用意される。
かくてまず仏画に茶が供えられ、客一同に抹茶を入れた天目茶碗が配られる。
そして給仕役が湯を入れた瓶と茶筅を持って出て、客の差し出す茶碗に湯を入れ茶筅で茶を点てるのである。
客が飲み終わると、又新しい天目茶碗が運ばれる・・・・・
こうした茶会も足利末期となって幕府の経済状況が苦しくなって行き、武家や貴族の生活が困窮してくると、次第に影をひそめてきた。
八代将軍義政の時代には、これまで華美であった茶会を簡素にし、場所も四畳半の狭い室が使用された。
このころ京の戦乱で、風流を楽しむ人達は泉州堺に移っていった。
武野紹鴎も堺へ移住した一人である。紹鴎は武田一族であるが、武人の生活を厭い、野に下り姓を武野と改め、茶之湯をより一層簡素にしていった。
紹鴎の茶室は百姓家を模した質素なものであり、台子で手前を行う代わりに炉を切り、舶来の茶器の代わりに国産のものを用い、とぼしきに満足して心深くもてなす茶であった。
紹鴎門下には、千 利休、古田織部、小堀遠州、小田有楽斉などを輩出し、現在表千家、裏千家、江戸千家、藪内流、遠州流、宗へん流等に侘茶は伝わっているが、それまでの茶之湯とはかけ離れて行きました。
その中で唯一武田家は室町将軍家や御所内部で行われていた茶之湯の本流を今日まで変化することなく伝承されております。
武田家は室町時代終焉まで高家(こうけ)筆頭として、幕府の儀式、典礼、朝廷への使節、勅使の接待、朝廷との間の諸禮をつかさどる役職で、鎌倉幕府の時に、それまではさまざまな方法で行われていた儀式を整理統一して文章に残していった。
それが室町時代になると、小笠原(武田家の分家)、伊勢、吉良、一色、山名、今川等の諸家が各々禮儀作法の形を整え、日常の禮儀、起居動作等の法式を定めました。
武田家は室町時代初期から建仁寺、南禅寺、天龍寺、東福寺、相国寺、等の館長を何代も務めており、又足利氏とは一族に当たるので幕府、公家、天皇家とも密接な関わりを持ち、経済支援なども行ってきた。
しかし、若狭守護大名として滅亡後は儒学者・医師として江戸時代より明治時代に至るまで天皇家や将軍家に仕えると同時に武田宗家道統四門(茶之湯・禮法、馬術、弓術、合気術)を一子相伝として子孫に継承している。