無功徳 廓然無聖 不識
(むくどく) (かくねんむしょう) (ふしき)
武帝、(達磨大師に)問うて曰く
「朕、即位已來、寺を造り 経を写し 僧を度すること勝紀すべ(かぞえきれない)からず。何の功徳かあらん」。師曰く
「ならびに無功徳(なんのくどくもない)」。帝曰く
「なにを以ってか功徳なきや」。師曰く
「これはただ人天の小果にして、有漏(うろ)の因なり。影の 形に随うがごとく、有りといえども実にあらず」。有漏=梵sasravaの訳――流れ出るものを有するの意。 佛語=煩悩
因 =よる、よりて、よって、ちなみに、ちなむ。帝曰く
「如何(いか)なるか是れ真(まこと)の功徳」答えて曰く
(浄智妙円、体おのずから空寂なり。かくの如き功徳は世を以て求めず)。(「景徳傳灯録」)
梁の武帝、達磨大師に問う
「如何(いか)なるか是れ 聖諦(しょうたい)の第一義」。磨曰く
「廓然無聖(かくねんむせう)」帝曰く
「朕に対するものは誰ぞ」。磨曰く
「不識」。帝、契(かな)わず。
達磨、遂に、江を渡って擬に至れり。
帝、後に擧してして詩公に問う。詩公曰く「陛下また、この人を知るや」。
帝曰く「不識」
詩公曰く「これはこれ観音大師にして、佛心印を伝るものなり」。
帝、悔いて遂に使いを遣わして、去って請ぜめんとす。試公曰く
「道(い)うことなかれ、陛下、使いを発し、去って取らしめんと、闔国(かつこく)の人去るとも,他また回らざらん」。 (「碧巌録」第一則)達磨大師は南インドの香至(こうし)国の第三王子として誕生した。
釈迦牟尼佛から数えて第二十七代目の般若多羅尊者の弟子となり、
その法燈(佛法がこの世の闇を照らす燈火に喩えて言う語)を継いだ。よって 第二十八代目の祖師で、禅門の鼻祖として仰がれている。
達磨大師がインドを出発して三年の後、中国の南海、今の広東に至ったのが梁の武帝の 普通元年(520)九月二十一日、と「景徳傳灯録」にあります。
当時、広州知事 蕭昂(しゅくこう)(武帝の従兄)、がインドから偉い僧侶が我が国に着(つい)たことを、武帝に奏聞した。
当時の中国は 北は「北魏」 南は「梁」の国に二分されていた。
梁の武帝は「仏心天使」と言われ仏教を崇拝する仏教信者でした。
武帝の治世の在り方はわが聖徳太子の仏教による国家統一の飛鳥奈良文化の手本ともなりました。蕭昂の奏聞により武帝自ら車を連ねて大師を梁の都金陵の宮殿に迎請した。ときに、達磨大師百三十歳であったとのことです。
面壁九年の末(壁に向かって座禅を九年間修行した。)、両手、両足を失ったという話は、この後の話である。達磨大師が金陵の宮殿に迎えられると、武帝は大師に
「朕、即位以来、寺を造り、経を写し(経典を修める)、僧を度すること、勝紀すべからず。何の功徳かあらん〜(朕、皇帝に即位して以来、多くの寺
を建立し,経を書き写し、僧侶を養成したり、わが民のため多くの事をしてきた。その数は計り知れないが、どのような、功徳があるであろうか)」大師曰く!
「ならびに無功徳(むくどく)」 (なんの功徳(くどく)もござらん)
と そっけない返事 ! 武帝おどろき、
「何をもってか功徳なきや」 (どうして、功徳がないのか)大師曰く!
「これ、人天の小果にして、有漏の因なり。影の形に随うがごとく、有りと雖も、実にあらず」
(それはみな 迷いの世界の中の小さな業績なり。迷いの原因を作っておるにすぎない。――影が人に付き纏う様なもので、譬え善意であるにしても、欲望が付き纏っていては、真実ではない ――)善いことをすると「功徳」と いう お返しを人は心の奥に期待します。これは迷いのもとをこしらえておるようなものです。
お寺を建立したり、僧に供養したり、人民のために 療養所を作ったり、
(実際、武帝自身は 悪衣悪食で一生を過ごし、居住するところも質素な建物だったと謂うことです)
するということは,善いことで悪いことではない。しかし、雨露(あまもり)がして
部屋に水が漏れると、悩まなければならない様に、功徳を求めてする行為は煩悩のもとです。「あれもしてやった!」
「これもしてやった!」
と思うようでは、本当に善い事をしたとは、釈迦牟尼佛は教えてないのです。むしろ、そうする事によって「自我慾」を高めることになり、功徳につき纏う善意は・・・!
善意であっても「善意にあらず」・「真実にあらず」と 大師 帝を説く。帝 問う
「如何なるか是真の功徳 ――― (ならば、真の功徳とは如何なるものか
)
大師 応えて 曰く
「浄智妙円、体おのずから空寂なり。かくの如き功徳は世を以て求めず。
――(清浄な佛の智慧は微妙にして完全であり、それ自体は空寂なり。
このような功徳は世間の常識で求められるものではない)――
浄(きよ)らかなる佛(ほとけ)の心の智慧が完全に自身に備わっている事が自覚されて、心が自然に鎮まる。
これが真の「功徳」である。されど世間の人々は このような功徳をもとめない。
少しの「善行」をもって そのお返しを期待する。これでは まだ 心 が空寂になっている とは言えない。
佛(ほとけ)の智慧がまろやかにそなわり、「真の安らぎの心」に、なって居るとは言えない。武帝未理解(いまだりかいできず)
帝 大師に問う
「如何なるか是聖諦の第一義 ―――(ならば、佛法の究極の教えはなにか)―――磨大師曰く
「廓(かく)然(ねん)無聖(むしょう)」―――(よく晴れて一片の雲もなく澄み渡っていることとし、これが一番
大事である。功徳(くどく)、功徳と追い求める心のないこと、これが一番の功徳(くどく)で佛の究極の真理なり)―――求める佛もなければ厭うべき煩悩もない。 求めるものも無ければ、捨てなければならないものもない、ただ満足の中に没入している。
このような「心境」が 「廓然無聖」です。武帝未理解(いまだりかいできず) そして問う
「朕に対するものは誰ぞ」――(ならば、朕の前におる其方(そち)は何者か。――(其方は遙々(はるばる)、渡来された高貴な聖(ひじり)ではないか)――
磨 答えて 曰く
「不識(しらず)」と!人間の人格というものは 無想なり。姿(すがた) 形(かたち) はない。本来は無相の自己なり。
これを臨済禅師は「一(いち)無位(むい)の真人(しんにん)」と呼んでいる。位の付けようのない。
それを なんと答えればよいのか。「知らん」としか答えようがない。
とぼけているのでも なんでもないのです。真実なのです。
そこのところを達磨大師は「不識」といったのです。ところが 「契(かな)わず」 ――(武帝はとりつくしまなし)――
「佛天子とまで言われた皇帝ではあり また人格者でもある。而(しかし)、もう一つ、
真の佛法というものをわかって 戴けない。これでは、ここにいても何の役に
もたたぬ」
すなわち、磨 「揚子江」を渡って、北の魏の国に去る。達磨大師が 魏の国に去った後、詩公和尚(武帝の佛法の師)、帝に問う
「この人を知るや」――(その達磨大師という方がどのような方かご存知ですか)――帝曰く
「不識」――知らん――この「知らん}は達磨の「知らん」とは雲泥の差があります。詩公曰く
「これはこれ観音大師にして、佛心印を伝うるものなり」――あの方こそ観世音菩薩であって、陛下に佛の悟りの心を示されたのです――――つづく――