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若狭武田家の勃興 第3章

若狭武田家の勃興

1)序章

2)系図

3)系図は何故作り変えられたか

4)武田信賢の述懐

5)武田国信の述懐

6)武田信廣の述懐

7)武田元信の述懐

8)武田元光の述懐

9)武田信豊の述懐

10)武田義純の述懐

11)武田信方の述懐

12)武田元明と龍子

13)武田信治の述懐

14)武田信重の述懐

15)求道の書家武田不識

文責 羽田孝文

 

系図はなぜつくり変えられたか

武田信治は信方の子であると言う家伝が傳っていて、今でも若狭武田家ゆかりの人たちに、ごく自然に語りつがれ、信じられている。しかし、信方と信治が親子であるという主張は無視されて、今日にいたっている。

この家傳を証しだてるためには、二つの系図を揃えなければならない。

いま手元に、福井県立若狭歴史民俗資料館による若狭武田系図と、寛永諸家系図とがある。

この系図の上では、信治と信方は親子としてつながらない。

信治が現れる寛永諸家系図によれば、信治の出自は清和源氏武田で、清和天皇七代新羅三郎義光を始祖としているから、これは若狭武田の系譜と同じである。

「寛永」では信治の父は信方ではなく、「信光」で、その先は信賢である。

信賢は「寛永」によると、「治部少輔 大善大夫 陸奥の守 安藝の守護」とある。

信賢は永享十二年(1440)に、足利義教の命で兄の武田信栄とともに一色義範を討ち、若狭武田家を興した武将である。文明三年(1471)に没した。

若狭武田系図の信方は、足利義昭に仕えて反信長包囲網に奔走し、天正十三年(1585)に没している。信賢とは100年以上の時間の隔たりはある。

したがって、「寛永」の「信光」も信賢とは100年の開きがあるはずである。

「若狭武田」と「寛永」の二つの系図を重ね合わせてみると、カタチ が極めて似ている。

ただ、「寛永」の方は、積み木をわざと壊したような形跡が見られる。二つの系図のうちの「寛永」のほうが繋がることを拒否して、幼児のようにイヤイヤを、しているように見えるのだ。

二つの系図がつながらないのは、「寛永」が当事者によって、故あって意図的に、しかも、丹念に手を加えられたがためである。

寛永諸家系譜の武田系図の作成者は、信治の長男信重である。

信重は「道安」と号し、皇太后中和門院や、将軍秀忠、家光の脈をとり、法印の位を賜った医師である。享保年間にこの家系から、のちに叔安信郷という江戸城中乗輿を許された名医が出て、法印に叙せられている。

寛永諸家系譜の「武田(医師)」と、これに続く寛政重修(かんせいちょうしゅう)諸家系譜巻百五十六「清和源氏義光流武田支流」の系図が武田法印系図といわれるのは、系統がすべて幕府の奥医師だからである。

道安信重は父信治については、讃岐高松十万石 仙石秀久 とともに豊臣秀吉の九州征討に参陣したと,五百字にわたる記述をしているが、祖父「信光」については「備前守兵部少輔予州に住して、和歌をたしなむ」と簡単にかたづけている。

父が 長宗我部元親 らと島津義久と戦った武将ならば、「信光」もひとかどの武将であったろうに、ただの 歌詠みにしてしまい、その生涯を誇るところがない。

足利義昭とともに 安藝の「鞆(とも)」に渡って反信長包囲網工作のさなかで 戦死した信方を、その子孫の信重が忌避して、秘密めかしい意図のもとに「信光」と変名し、系図から抹殺し,それを解くカギは寛永諸家系図の成立の根拠にある。

寛永十八年(1641)、幕府は諸大名家や旗本に系図の提出を命じた。

林羅山らが中心に編纂事業を進め、二十年に参百七十二巻が完成した。

寛永諸家系譜な何のためにつくられたか。

山本博文氏は「この事業の目的は、諸大名が徳川家にたいする忠節をいかに果たしてきたかということを明らかにすることであって、幕府に対する臣従の態度の確認の意味をもった」と述べておられる。(「寛永時代」)

将軍家光が家綱への政権移譲をにらんで、諸大名に対して家綱への服従を強請ものである。

このため、島津家は、林羅山の指示で徳川氏から蒙った(厚恩の条々)を書きならべて提出し、黒田家も先代長政の勲功の記述についての問い合わせを酒井忠勝にしていたという。

道安信重は京都に住んでいたが、将軍家から求められるままに何回も江戸に下った。

つまり、往診であろう。江戸城の近くに三階建ての邸宅を許され、空気の清浄な三階で、薬の調合をした。

奥詰めだから、情報量も多く、幕閣の意向は大名以上に分かる。寛永諸家系図を作る将軍家のハラは、十分に飲み込んでいる。

「さて、信勝 いかがなものであろう」

京都の屋敷に、弟 笈淵信勝を招いて系図差出の上意を告げた。

信勝も法眼に叙せられた名医で、兄信重とともに藤原惺窩に儒を学んだ。この年、信勝は後水尾上皇の御脈を診ている。

「父の信治殿は、仙石秀久殿と太閤殿下の九州征伐に従いなされた。お二人とも秀吉公のご勘気をこうむったが、お父上は織田信勝様にお命を助けられ、仙石殿はいまも将軍家のおぼえめでたく、上田六万石の領主であられる。

お父上は系図にお載せして差し支えなかろう」

「しかし、祖父信方様はいかがなものか」

信勝は虚空を見つめる。二人とも武田家の歴史は、父信治に幼いときから教え込まれており、始祖の清和天皇七代新羅三郎義光公まで暗じることができる。

だが、二人は今の武田家の安泰を損ないたくない。弓馬の道を捨て、医学を極めて法印.法眼の位を得、朝廷、将軍家に招かれるまでになった。

祖父や父の凄惨な一生を知るだけに、医家としての武田家を守りたい。

「祖父信方様は、最後までお織田殿とそのご一族に逆らわれた。東照権現様は織田殿の盟友であらせられた。これは系図には載せられぬ。どんなお咎めあるやもしれず、末代まで累が及ぶやも計りがたい。杞憂かも知れぬが大事をとって、恐れ多いいことながら、祖父(そふ)君(くん)の御名を系図からお消ししようと思う」

信重の蒼白な顔が引き吊る。だが、信勝は冷静に、事を処理しようとしていた。

「祖父君の御名をお消しするだけでは足りませぬ。信方様に連なる若狭武田の名も系図からお消しせねば。信栄様から始まり、義統様、元明様に連なる若狭武田の歴代を明かせば、わが祖父君信方様のお名も現れましょうほどに」

「若狭武田の二百八十年を空白にするというのか」

信重は驚愕のまなざしを信勝にむけた。「われらの胸にしまいこみ、家傳とし子孫に語り継ぎましょう。系図の空白の中におられ、しかし、われら一統だけにお姿が見えるご先祖に子孫末代まで手を合わせましょうぞ。
これが、われら武田一統の精一杯の踏ん張りでござる」

「典医の法印のと申しても、騒ぎがおこれば何の手立てとてない弱い立場じゃ。林羅山様とは昵懇の間柄ゆえ、悪いように致されまいが、もし、幕閣からお疑いをかけられては、われら、ひとたまりもない 小心者よと後世そしられようと そなたの申すようにいたそう。われら、この系図から新しく伊豫武田を立る」

信重、信勝兄弟は鳩首して系図を作った。

信方を信光とし、100年以上も前の信賢につなげた。兄の信栄から若狭守護を譲られた信賢は、弟国信に守護を譲る。

子供は十五歳で没している。国信から元光、信豊、義統、元明と若狭武田は続く。義統の弟が信方である。

本来国信に繋げるところを、敢えて一つはずして、弟の信賢に繋げたところにも、巧妙な作為がある。

若狭武田系図によれば、信賢、国信から溯(さかのぼ)れば、信繁、信守、信在、氏信 から 信武、に至る。

「寛永」は信綱、直信、信武に至る。

ここに系図の空白と作為をも一つ行った。しかし、さすがに気がさしたのか、信武、直信は足利尊氏、義詮の時代で 信治の時代まで二〇〇年は経っているのに、わずか,三、四代ではおかしいと言い訳しながら「家傳の説にしたがふのみ」とした。

「寛永」とは直接関係ないが、信重の子孫は「本国伊豫」と名乗ることになる。」

例えば 寛政十一年(1799)の「寛政呈書(万石以下お目見え以上)国字名集」には、武田秀安信敏、武田叔安は信邦本国伊豫とされている。いわゆる「伊豫武田氏」である。

寛永諸家系譜とは、将軍の権威に拝跪しつつ、一方において家系の尊貴を誇るものであり、その作成には、徳川政権やそれに連なる権力に都合悪い行状があった先祖の事跡の記述には、自主的に規制した作業がなされたと聞く。

寛永諸家系譜で「世系中絶のうたがいなきにしもあらずといへども、しばらく家傳の説にしたがふのミ」と言いつつ、実は用心を重ねて自ら「家傳」を歴史から遮蔽してしまった屈折の記述には、国家計略のもとに奔走し、頓挫し、沈んでいった、わが祖 武田信方公 の血の暗い呪詛の つぶやきのようなものが聞こえる。

父信治とともに織田信勝を頼って京にのぼり、戦(いくさ)の道を捨て、貴人(きにん)に交わるに最適の業として医家を志して成功した道安信重と笈安信勝が、自家の安泰と子孫の繁栄のために自己保存の本能が働き、父祖信方の名を信光と変え、信方に繋がる若狭武田家を切り捨ててしまったのも、時代がさせたことと理解してやまない。

そして武田道安信重の自らの事跡は、こうなる。

「寛永八年九月十八日、台徳院(秀忠)の御不豫(ごふよ)により、召しに応じて 江戸 にいたり、翌年、京に帰る。

同九年十一月二十八日、将軍家(家光)御不豫(ごふよ)により、召しに応じて江戸に赴き、御薬を献じて、頗るしるしあり。

同十一年七月十日、将軍御入洛(にゅうらく)のとき、供奉(ぐぶ)して京に帰る。

同十二年二月十四日、将軍御不豫により また召しにしたがひて江戸に至り、御薬を献じて しるしあり。

翌年六月十一日、暇をたまわりて京に帰る。それより以後今に至るまで往還す」

第3章 完

----あとがき---

これまで、若狭武田家系図に関して書き留めてきたがこれを著すのには武田信春氏から「若狭武田家について筆者が武田家に家傳として伝わる諸々のことを、武田信春氏の話をもとに、研究し、かつ現地調査もして氏の話の裏付をおこない、武田信春氏に家傳として伝わる「口伝が間違いのない」ものと自信を持って書き上げたことを、ここにしるします。

また、余談に成るやも知れませんが少しばかり、書き足します。

平成二十年五月 文責


別の説もある。(筆者)

寛政重修諸家譜には「寛永撰譜」のとき家より呈するところの譜は、武田信武より連綿の世系を出せりと見ゆ」とある。

「こんなに空きがあるのは寛永諸家系譜の編集長の林羅山が、当家が提出した完璧な系図を紛失したのでは?」

控えもとらず提出した完全原稿を紛失されたのでは、再提出は不可能です。こっちもいそがしいのだから」と言ったところか。

佐渡ヶ島がみえる静かな海辺に住む, 若狭武田家三十四世 武田信春氏は、家傳を受け継いでいる。世嗣にのみ傳える「一子相傳」である。

武田信春氏は、先祖の名を、信方(のぶかた)公、信治(のぶはる)公、元明(もとあきら)公、道安(どうあん)殿、叔安信郷(しゅくあんのぶさと)殿と 畏敬と親愛の念を込めて語る。

「信治公は仙石秀久に騙されて、秀吉に殺されそうになって、坊主になって高野山に逃げ込んだとき、命を助けてくれたのが、織田信勝公で、信勝公が いなければ、若狭武田の血脈は完全に解らなく成っていたでしょう。

ですから、信勝公 は われ等 若狭武田一統の恩人です。 ですから 今でも、甘楽(かんら)町にある無住(住職の居ない寺)の小さな寺にある信勝公の墓参りは欠かしません」

と自分の子供の頃の出来事であるかのような口ぶりで、懐かしげなのである。

武田信春氏は、間違いなく母親 春月尼から口伝として 若狭武田家の歴史を伝えられた。

だが、信春氏は寛永諸家系譜も寛政重修諸家譜も重きを置かない。

口伝を授けた春月尼もそうだったのであろう。信方と信治が系図の上で繋がらないとしても、信春氏としては
関係ない事なのである。

「信方公と信治公は親子です」

それを疑う説が、不思議でならないのだ。数百年の口伝の重みであろう。

だが、寛永諸家譜については「幕府の系図編纂所が、紛失したという話は聞いたことがあります」と言われた。

しかし、たとえ林羅山に紛失されたとしても、家伝、口伝 が「体に染みついている」以上、その気になれば空白が埋まらない訳はない。

「寛永」は道安信重、岌安信勝によって破壊的に改ざんされたと、筆者には思えてならないのである。

武田信春氏について続ける。

武田信春氏は、永猷と称する。武田の血を引く母親はシモヨといい、春月尼と称した。

信春氏は小学校に入らなかった。

武田家宗家としての教育をするためには、小学校教育は役に立たないと考えたらしい。

いまの学校教育では人間の神気が失われると。

茶之湯・禮法、馬術、弓術、そして合気の術を、若狭武田家道統四門 というが、母親は信春氏を宗家にするべく教え込んだ。

教えるくらいだから、母親の春月尼さんも強かったらしい。

馬に乗って弓を引くし、夫婦喧嘩をすると、夫を手もなく投げ飛ばしたという。

その夫の曾祖母(そうそぼ)の父は九州柳川藩の家老を務めた人物と聞く。

幼児のとき筆を持たされた。毎日、春月尼が 古今和歌集 から三首を選んで草書で書き、手本として与えた。

信春氏は、幼時硬筆を持った記憶がない。

六歳で臨済宗の寺で得度し座禅を学んだ。

二十四歳で若狭武田宗家を継ぎ、座禅と書に打ち込み、四十七歳で大学の事務局長を退職し馬三頭、犬二匹、猫十数匹を連れて放浪乞食の旅に出て九州から北海道まで歩き回り、その間 度々自分たちの食事どころか、動物達に与える餌とてない日々の連続で、世間の怖さの何たるかを舐めつくしたらしい。

この辛苦のなかにあって 書 に励み、いまの 峻烈で、孤高飄逸(ここうひょういつ)の味のある書風を完成させた。

平成二十年五月 文責


 

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