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若狭武田家の勃興 第4章 その1

若狭武田家の勃興

1)序章

2)系図

3)系図は何故作り変えられたか

4)武田信賢の述懐

  1. その1
  2. その2
  3. その3
  4. その4

5)武田国信の述懐

6)武田信廣の述懐

7)武田元信の述懐

8)武田元光の述懐

9)武田信豊の述懐

10)武田義純の述懐

11)武田信方の述懐

12)武田元明と龍子

13)武田信治の述懐

14)武田信重の述懐

15)求道の書家武田不識

文責 羽田孝文

 

若狭武田家の勃興     武田信賢の述懐

  永享12年(1440)の春であった。
「管領 細川持之殿からの御使者が参り、将軍から直接ご沙汰あるによって、細川成之殿と共に上洛し、御所に参上ありたし との御諚ござった」

  兄の信栄殿が憂い顔で、そう言われた時、わしは胸騒ぎがした。何か落ち度でもあったのか。−−−−−-将軍直々に御詮議とあらば、ただではすまされぬ。

  永享9年、南朝の遺臣 越智維道が叛旗をひるがえして、大和で挙兵した。

わしは幕府の命で信栄殿に従い、大和へ鎮圧に赴いたが、執拗な抵抗にあって
3年という思わぬ長陣となった。一色義貫殿、土岐持頼殿、細川成之殿の軍勢も在陣している。

 父 信義と共に頼朝公に仕えた 伊豆守大膳太夫 武田信光殿は、承久の乱の後、安藝守護となり守護代を置いて治め、伊豆守冶部少輔 信時殿は安藝に下って根付き、甲斐守護 信宗殿は安藝守護となり銀山城を築いた。

  陸奥守 信武殿は鎌倉末期に後醍醐天皇方に属し、南北朝争乱期には 足利尊氏方につき勢力を伸ばした安藝守護である。

  わが曽祖父氏信の時代までは、わが武田家の祖は安藝守護職として勢威を振っておった。
  だが、石見から大内氏が侵入したり、山名、細川、今川と守護職が変わって 武田は衰え、父 信繁殿に至って安藝八郡のうち安南・佐東・山縣四郡を所領するだけの半国守護となった。信栄殿は、信繁殿から所領を継承している。

  所領没収などという罰を加えられれば、ひとたまりもなく安藝の土豪にでも身を落とす事になる。
  「なんぞ心あたりが ござるか?」
信栄殿は黙って首を振られた。

  義教将軍は 三代将軍義満公のお子で、後継者以外は出家するという足利家の定まりに従い 青蓮院に入り、義円と名乗って天台座主を勤められたが、兄の義持将軍の逝去により、永享元年(1429)に還俗して、将軍継嗣の資格のある四人で籤引きという前代未聞の選ばれ方で、六代将軍になられた。

  気性が激しく、初めのうちは管領達の意見を取り入れたが、歴代将軍の様な飾りだけの権威である事に飽き足らず、将軍自らが権力を持つ事に執着され、苛酷な独裁政治を行うようになった。
出仕停止や、領地召し上げの罰を加えられた公家や守護大名も多く、仕える者は恐怖に駆られ、機嫌を損じまいと息を詰めて将軍の一挙手一投足を見守った。

  永享六年(1434)には、義教公に楯突き 将軍職をも狙う鎌倉公方足利持氏殿と通じた延暦寺の僧徒を弾圧し、山門宗徒二十余名が根本中堂にこもり、火を放ち自害して果てた。十一年(1439)には鎌倉公方持氏殿を自害させた。

  薩摩に逃れた弟の大覚寺門跡 義昭をも殺す。
  実力者として知られる山名時熈殿でさえ、子息持熈殿の出仕に怠りありと責められ、持熈殿を廃嫡し、弟の持豊殿に家督を継がせるほどであった。

  藤原有定殿は、罪により蟄居している前内大臣 藤原清道殿を訪ねたという理由だけで、領地を没収された。

  義教公に後に八代将軍となる三寅様が生まれた時、生母の兄が前権中納言 日野義資殿であったが、将軍家に祝いに行った帰途、日野家に立ち寄り義資殿に祝いを述べた公家や僧等六十人が、領地や家財の没収、放逐などの処分を受けた。たまたま将軍の勘気に触れ謹慎中であったからというのが処分の理由で、その義資殿は間もなく暗殺された。

  その上に男色を好まれ、赤松満祐の一族 貞村を寵愛して、満祐の領国 備前、美作、播磨三国を与えると言い出し騒ぎを起こされ、それが義公殿の運命を暗転させることになる。

 「この度の長陣が、大樹公の御勘気に触れたのではありませぬか」
  「一色、土岐殿にくらべ、わしらが戦が見劣りしておることはない。戦の様子は逐一幕府にお知らせ致しておる。他の御用がおありなのであろう」
と己が胸に言い聞かせながらも、わだかまりを押さえ切れない信栄殿を送り出すと、われら一族が弓箭の神、妙見菩薩に何事も無く帰られるよう祈りを捧げた。

  そこへ、守護として四代にわたり若狭を統治するほか、三河、丹後の守護を兼ねる一色義貫殿の被官 三方忠治殿が訪ねて来られた。

  忠治殿は代々一色殿に仕える若狭土着の宿老で、三方若狭と名乗っている。

  越智維道の軍勢は、各所で打ち破られて四散し、大和山中に潜んで 姿は見せぬものの夜討ちをかけたり、武器や馬を奪ったりと、散発的であるがしつこい動きをしている。しかし、徐々に包囲網は狭まり越智勢の壊滅は近い。

  大和三輪の武田勢の陣屋と一色勢の陣屋は 山ひとつ挟んだ丘に建てられていて、細川勢、土岐勢の陣屋も点在している。

  信栄殿と忠治殿は、三年もの戦いの明け暮れの中で、兄弟のように気を許す仲になっておった。 酒を飲み、歌を詠み、中庸や史記や伊勢物語を語り、戦の暇を楽しんでおり、わしも相伴させていただいている。 いまは主軍である一色勢からの伝達は、忠治殿が買って出ておられるようだ。

  「信栄殿はご在陣かな」
馬を降りた忠治殿の髭面が、にこやかに語りかける。身の丈六尺の武将である。
  「連歌の催しの日取りを決めようと参ったのだが」
かねがね忠治殿は
  「武田信栄殿は分雅の道に秀で心床しき武将でござる」
と二人でまいた連歌を披露するなどして、主君 一色義貫殿に信栄殿の噂をしておられた と聞く。

  こたび忠治殿は主君の長陣の無聊を慰めようと、武田の陣屋に赴き 信栄殿らと一日酒宴を開き 連歌を催したいと申し出て、一色殿もお気乗りの様子であったとのことでござった。
「御所様のお召しで、京に上りましてございます。一日、二日で戻りましょう」

  「御所様に召されたと。 それは重畳。さだめし昇進のご沙汰でござろう。あやかりたいものよ。偉うなられても、旧来通りのご高誼お願いつかまつるとお伝えくだされ」
  豪快に笑うと馬上の人となった。

 信栄殿は細川成之殿と共に、御所の奥深くに案内され、うながされて義教公の側近くに座ると平伏した。 侍女達は遠ざけられ、管領 細川持之殿が一人立ち会われている。お咎めがあるのではと、緊張の色を隠せない。

「越智討滅も近い様子、祝着である。御所様にもご満足であらせられる」
お咎めではなかった。額から安堵の汗が噴き出る。
「苦労をかけるが、その方どもに、もう一働きをしてもらいたい」
と、管領が押し殺した声で言う。
「何なりとお申し付けくださいますように」
「もう少し寄れ」
二人はにじり寄ると、再び平伏する。
「その前にしかと申し聞かす。大樹公様のご命令に違反せば、所領没収と致す」
青ざめた二人は、平伏したまま身じろぎもしない。
「承知つかまつってござる」
「されば将軍義教公の御命令である。一色義貫と土岐持頼を誅殺せよ」
信栄殿の顔は見る間に紅潮した。彫像のように表情のない将軍の顔を仰ぐと
「何と仰せられましたか」と か細い声で問うた。
「信栄は一色を、成之は持頼を、大和陣中で攻めよ。褒美として信栄には若狭一国を、成之には三河一国を与える。必ずしとげよ」
義教光は、そう言うなり座を立った。

 義教公が、なぜ一色殿や土岐殿を誅殺なされようとするのか。

  十年も前の永享二年(1429)のこと、義教公が右近衛大将に任ぜられた祝いの式に、供奉(ぐぶ)する一騎打ちの順序の第一を畠山持国殿、第二を一色義貫殿とされた。

  一騎打ちは守護の中でも格式高い有力大名が任ぜられるもので、家門の名誉とされる。
  「おそれながら、わが一色家は足利将軍家の流れにして、代々忠節をつくし、一騎打ちは第一の栄誉を頂戴いたしており、三代将軍義満公の折には一色詮範が第一の先例もござります。この度は第二であるとのお沙汰、どうか、ご再考下さいますよう」

  義貫殿は義教公に言上したが、義教光は大名のわがままに聞く耳もたぬと無視し、義貫殿は武門の名折れと、病気と称して参列を拒みなされた。

  これを憎み、いつかは誅戮(ちゅうりく)せんと機会を狙っておられたところに、「こたびの大和攻めで 主力の一色勢に不審の動きあり、儀貫は南朝に与せんとする節あり」 との讒訴があり、将軍は一挙に決着をつけようとなされた。

  また、正長元年(1428)、北畠満雅が後亀山天皇の息子小倉宮を奉じて蜂起した時、義教公は伊勢守護の土岐持頼に直ちに討伐するよう命じられた。だが、持頼殿は持久戦に持ち込み平定した。これを命に背いたとして義教公は深く根に持たれ、持頼誅伐を心に秘めたといわれる。

  帰陣した信栄殿は、憔悴しておられた。

  「義教公の命で一色を討つ」
静かな眼で わしを見つめて言った。

  七つ違いのこの兄者は、幼い時から愚直なほど正直で、建仁寺に塔頭十如院を建てられ 佛の教えに帰依なさるほど 心やさしく、よく 二十八歳まで戦場を駆け巡りながらも生き長らえたと思えてならぬほど温和な人柄だが、その静謐な眼差しから、わしは、いま兄者は死ぬ気でいると感じた。

  「一色殿は足利家の宿老で三国の守護。われら安藝半国の守護では太刀打ちできぬ力をお持ちじゃ。この大和の陣営でも兵の数は千、われらの三倍じゃ。義貫殿のお首頂戴はおろか、まともに戦って勝ち目が無い相手じゃ。 しかし、大樹公のご命令とあらば致し方がない。われらもろともに討ち死に覚悟で名乗りを挙げて攻め掛かり、清和源氏の流れを汲む武田の戦を見せてやろうぞ」

  「兄者は死ぬお覚悟か」

わしは、冷ややかに言った。いま武田一族 一人たりとも死なす訳にはいかぬ。安藝四郡のうち一郡たりとも手放すわけには参らぬのだ。

  「安藝の父 信繁殿には申し訳ないが、一色陣屋に攻め入って斬り死に致す」

  「ほう、ご苦労な事じゃ。だが、それは犬死というもの。兄者としたことが、何を血迷っておいでか」

--- つづく ---

 

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