若狭武田家の勃興 第4章 その3
若狭武田家の勃興6)武田信廣の述懐 7)武田元信の述懐 8)武田元光の述懐 9)武田信豊の述懐 10)武田義純の述懐 11)武田信方の述懐 12)武田元明と龍子 13)武田信治の述懐 14)武田信重の述懐 文責 羽田孝文
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若狭武田家の勃興 武田信賢の述懐大樹将軍の宿望は達せられた。 その頃、鎌倉公方足利持氏の遺児 安王、春王を擁した結城氏朝を結城城に攻めて落とし、二人の幼い公達を捕らえ、美濃青野原で殺した。 足利将軍の勢威はますます盛んとなり、守護大名、公家から武士、女官にいたるまで威服しない者はなかった。 義貫殿の所領 若さ、三河、丹後、伊勢のうち、信栄殿は若狭を与えられ 六月末に若狭に入部したものの、三方忠治殿から受けた肩口の刀傷は化膿し、発熱して治療ははかどらなかった。 将軍家から医師が遣わされたが本復せず、それを聞いた商人や百姓は一色様の祟りじゃと囁いた。 信栄殿はそれから一色殿や忠治殿のことを、一言も口にされた事がない。 仰臥して宙の一転に視線を凝結させたまま、身じろぎもしないでおられる時、あのときの想念が信栄殿の中を駆けめぐっているのじゃろう。 あの時、本来なら 肩口から袈裟斬りに断ち割られていた忠治殿の切っ先を、何故交さなかったのか。 武田家の浮沈がかかる場面で、またぞろ信栄殿を骨がらみにしている武士の義という病癖が頭をもたげ、切り下ろされた刀を避けずに罰を受けようとなさったのじゃ。 あるいは、忠治殿はわざと一拍ずらせて切り込んだのかもしれぬ。怒りを伝えたかっただけなのかも知れぬ。 とすると、あの剛毅な武者の心の奥にも、酔狂な毒が潜んでおったのか。 義などという益体もないものに振り回されておっては、国の仕置きが出来ぬ事すら、兄者は分かっておられぬ。 連歌の、能などという手すさびの遊芸が、人の品性を現す高尚ごとと考える愚かさが、国を滅ぼす事になることも分かっておられぬ。 または信栄殿の宙に彷徨う視線の果ての闇の中に、細川殿の押し攻めに引き比べ、謀殺という手立てを使ったことへの恥の炎が揺らいでいるのかもしれぬ。 それが口惜しい。今の世に義や情に命かける者はおらぬ。 謀があくと言う者はおらぬ。 病臥する信栄殿にはお伝えしておらぬが、いま一色の残党は蜂起し、富豪商人どもは仕置きに従わぬ。百姓や商人どもはそっぽを向いておる。われらの領国は乱れている。 この有様が何年も続けば、幕府によって若狭守護職を取り上げられるのは必定じゃ。 だが、それを言うても詮無いことじゃ。 信栄殿は一国守護となって若狭入部後一ヵ月後の七月二十三日、小浜の武田舘で 後を頼むと何回も繰り返しながら、この世を去られた。長福院殿天遊光藝大居士。 わしは信栄殿の後を襲って、若狭守護となった。 徳銭の徴収に応ぜぬ富裕商人を集め、速やかに納めるよう督促した。
「そのように厳しい段銭は、一色様の時代にはお取立てなさらなんだ」 それでも従わぬ商人は捕縛し、見せしめのために斬首の刑に処した。
「希代の悪守護じゃ」 一色の治世に慣れた国人、百姓、町人を、武田の支配に服従させるまでは長い道程がある。熊谷美濃守信直、内藤筑前入道昌廉など 安藝から心知った被官たちをして、領国経営に当たらせ、熊谷を守護代としたが、まだ、若狭の風土習慣に慣れ親しむまでは時が必要じゃ。だが、わしは遠からず武田の若狭を作り上げて見せる。 そうして一年が経った。 嘉吉元年六月二十四日(1441)、恐ろしい知らせが京から届いた。 播磨国守護赤松満祐が大樹将軍義教公を弑虐(しいぎゃく)し奉ったのじゃ。
結城合戦の勝利で、長きにわたった足利将軍と鎌倉公方との争いが終った。 その日、赤松満祐は、戦勝の祝いを致したいと、義教公をお誘い申した。 「わが庭の池に小鴨が生まれ、親鴨と泳ぐ姿、まことに興趣がござりまする。ぜひ御来臨賜りたく願い上げ奉ります」 願いを入れた義教公は、権中納言 三条実雅殿、管領 細川持氏殿、侍所頭人 山名持豊殿、斯波義廉殿、京極高数殿、山名熈貴殿、大内持世殿ら諸大名と僅かの共を随えて、西洞院の赤松邸での盛大な祝いの宴に臨んだ。 贅を尽くした饗宴に、大樹公は気持ちよく御酒を過され、猿楽を楽しまれていた。 音阿弥の「鵜飼」が終った頃、不意に荒馬が 舞台をしつらえてある庭に走り込んだ。 何事かと騒然となり、御所様も鼻白んで隣に座る満祐を見やられるが、満祐は 含み笑いをしたままお答えをされぬ。 「馬を逃がすな。門を閉めよ」 との声を合図に、軍兵がなだれ込んだ。 「御所様のお命頂戴仕る。一人たりとも逃がすな」 と、軍兵の頭が叫びながら、義教公めがけて走ってくる。 驚かれた義教公が立ち上がらんとすると、両脇の満祐とその子教廉に、しっかと腕を抑えられた。 「日頃の無念、晴らさせていただく」 と、満祐が言うや、屏風の陰に潜んでいた家来の安積行秀が刺し貫き御首級をあげた。 山名熈貴、京極高数は殺され、その他は塀を越えて逃げ失せた。 天下を畏怖させた足利幕府六代将軍義教公は、赤松満祐の恨みと恐怖によって在位十二年、四十八歳であっけなくこの世を去られた。 満祐の将軍弑虐は、元はといえば足利将軍の男色の癖に原因があった。 義教公の父 四代将軍義持公は、満祐の一族である持貞を寵愛され、備前、美作を与えられていたが、満祐の所領播磨をも奪おうとし、義持公も此れを許された。満祐は怒り播磨白旗城に籠もった。 此れは収まったものの、義教公は持貞の息貞村を寵愛し、播磨、美作を貞村に与えるらしいという噂が立った。 その後、満祐の弟義雅の所領が没収されて、貞村に与えられたのを見て、満祐は恐怖にかられた。 折りしも一色、土岐が誅戮された。
「次は己の番だ。 殺らねば殺られる」 いなかにも 京にも 御所の絶え果てて 満祐は五十騎を従え、西洞院の邸に火を放ち、刀に刺した義教公の御首を高々 「満祐を追討せよ」 との命が若狭にもたらされた。 わしは領国統治の始まりに、国を明けることにためらいがあった。 かなりの兵を若狭に残さねば、一色の残党に乗っ取られてしまう恐れがある。さりとて、前守護を殺して手に入れたばかりの若狭守護職であってみれば、兵を挑発する時間が無い。 「殿、我が方は僅かの手勢で十分でござる。何の 一色の残党ごときは、まとめて槍の錆にしてご覧に入れまするによって、存分に赤松退治で手柄を立てて下され」 若狭に残し留守をあずける熊谷信直が、殊勝にも申した。 わしは、安藝の被官たちにも出陣を命じ、若狭、安藝の軍勢三千を揃え、山名宗全殿、細川成之殿らと満祐追討の軍を播磨に進めた。 満祐の手勢は手ごわく、わしに与した安藝の国人吉川駿河守経信殿が良く働いたが、吉川殿の被官らが数多く討ち死にをした。 満祐は書写坂本城に籠城しておったが、われら若狭勢が猛攻し、郎党 相原源蔵、矢野源八らの目覚しき働きで、こらえ切れず城山城に走り、弟義雅など一族七十人とともに腹を切った。 赤松追討の戦は終った。 しかし、若狭からの急使が戦勝気分を吹き飛ばした。 将軍暗殺の後、近江から起こった土一揆が徳政を求めて京に波及し、数万の規模に膨れ上がっていたが、その余波は若狭に至り、九月には一色の残党を巻き込み、わが守護館を襲ったというのじゃ。 室町になってから貨幣が出回り、金が幅をきかすご時世になり、土倉という金貸しが肥え太り、有徳人といわれる金持ちが生まれる一方で、借金返済に困った地侍や百姓が増えた。 彼等が年貢や借金の未払い分を帳消しにせよと、徳政令の発布を求めて 幕府や守護大名に武器を持って蜂起したものが、土一揆じゃ。
「五百もの土一揆の輩は 小浜の土倉、酒屋等を打ち壊し、徳政を唱えて借金証文を奪い、そのうえ御館を襲いましてござる。」 せっかく拝領した若狭を、土一揆の輩に踏みにじらせておくわけにはいかぬ。
わしは、吉川経信殿に助力を乞い、土一揆討伐のため若狭に向かった。 --- つづく --- |