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若狭武田家の勃興 第4章 その4

若狭武田家の勃興

1)序章

2)系図

3)系図は何故作り変えられたか

4)武田信賢の述懐

  1. その1
  2. その2
  3. その3
  4. その4

5)武田国信の述懐

6)武田信廣の述懐

7)武田元信の述懐

8)武田元光の述懐

9)武田信豊の述懐

10)武田義純の述懐

11)武田信方の述懐

12)武田元明と龍子

13)武田信治の述懐

14)武田信重の述懐

15)求道の書家武田不識

文責 羽田孝文

 

若狭武田家の勃興     武田信賢の述懐

「武田の守護代を放逐し、館を焼き尽くしたぞ」との」勝報が若狭一国に広まっておった」

「やはり一色様は強い。一色様の治世を取り戻そうぞ」

影で操る一色残党が、土民どもを唆している。
これからは、一色義貫殿との戦になりそうじゃわい。
わしは、義貫殿が腹を召されるときの、涼やかな御顔を思い出した。

 一度勝ちの味を知った土民達は頑強に抵抗し、攻めれば逃げ、隙を見ては襲ってきた。
大和で反乱した南朝の遺臣越智維道の戦いぶりに似て、執拗でござった。

わしは若狭に到着して一ヶ月というものは、小浜の館に入る事ができずに戦いに追われた。 守護不在の空白を長引かせてはおけぬ。どんな手段を用いても、鳧(けり)をつけねばならぬ。 わしは幕府と細川軍に援軍を求めた。

十一月に入り援軍が到着し、陣容を立て直して土一揆を挟撃し、皆殺しにした。 特に一色残党は草の根分けても探せと厳命し、殆どを捕らえて首を撥ねた。

十一月十二日、小浜を取り戻し、改めて領国経営に取り掛かった。

若狭は京に近い地の利から、東寺、三井寺、神護寺、大徳寺、等持院などの荘園が多い。 その他、禁裏御料所、院領、幕府御料所があり、沼田、本郷、大草、曽我などの将軍家直属の奉公衆の領地がある。
これらには段銭直納の権利があり、守護が介入できない事になっていた。

寺領 本所領の代官は、若狭生え抜きの国人が務めている。 彼等は当然の権利として、守護を無視し 人夫の供出も行わないから、とくに寺領 本所領が多い若狭では守護の台所が苦しく、家臣を養うこともできぬ。
わしは、寺院領 本所領の代官を、すべて守護方の代官に変えるという強行策を取った。

守護方代官は、人夫の供出を拒む百姓には守護が治める地域への出入りを禁じた。商業取引の活発な小浜湊に出られず商いが出来ないので、殆どの百姓はお触れに従った。

あくまで拒んだ天龍寺領の百姓どもは、関所を設けて押し込んだので、五十日で降参したわい。 代官職を失って窮迫し反抗する国人どもや、布令に従わぬ輩にはことごとく死罪を申し付けた。 仁政はそれからじゃ。

ようやく世情は安定し、農は富み、商の動きも増し、小浜湊を拠点として交易する富裕な大商人も安定し、若狭国内は落ち着きを見せて参った。

わしは京にあって幕府を警護する役目を仰せ付かり、若狭の仕置きは粟屋賢家などに任せた。

義教公暗殺後、嫡子義勝殿が管領細川持之殿らに擁立されて、八歳で七代将軍となられたが 十歳で没せられた。後を弟の三寅丸殿が八歳で、細川殿から管領を引き継いだ畠山持国殿らに推されて義政と名乗り、八代将軍となられた。

この非力な将軍は、生涯政治向きの決断をせず、遊宴に耽り、風雅の道を歩まれたが、管領になられた畠山殿が将軍に良く補佐をされ、幕府の態勢に罅(ひび)は入らぬと見られていた。 将軍御所にとっては、見せかけの平和の時代でござった。

この十年で、若狭統治の基礎が作り上げられた。

わしは京の屋敷で毎月十八日、歌興行を催した。

飛鳥井黄門殿や小笠原備前入道殿などを招き、わしの月次和歌会は評判が良かった。

歌興行を催せば 公家、大名、富裕な商人も集まる。禁裏の考えも幕府の動向も分かるし、商人からは 唐、天竺との交易の状況も、物産の流通の様子も聞き出せる。

歌興行をする以上、下手な歌を詠めば恥ゆえに修行に励むから、風雅な大名よと噂され、御所からはただの武辺ではないと一目置いて見られる。 わしの風雅の道の目的は、それにつきる。

こうして公家や大名、富裕な商人が、昼な夜なの饗宴にうつつを抜かしているとき、京の周辺には土一揆が休み無く横行した。

わしは土一揆の鎮圧、禁裏の警護と忙しく動き回った。

そして応仁元年(1467)、天下の大乱が起こった。 

幕府の屋台骨を支えてきた畠山持国殿に、気の緩みが見え始めた。親子の愛に引かされて跡目相続問題を起こしたのだ。

持国殿には養子の政長殿と側室に生ませた義就殿がおられたが、義就殿に家督を継がせたいと考えておられた。 家臣は政長派と義就派に分裂した。

政長派が当時の管領細川勝元殿に助力を頼んだ事から、ことは畠山家内部の問題では済まされず、複雑な様相を呈するようになった。

病床の 義就殿可愛さの持国殿は、怒って政長殿の家老 神保越中守の屋敷を囲んで殺した上、政長征討の御教書を将軍義政殿に願い出て許された。

ところが、婿の細川勝元殿と組んだ政長派の赤入道といわれる山名宗全殿は、持国殿の屋敷に火をつけるという逆襲に出た為に、義就殿は伊賀に逃げ、持国殿は建仁寺に隠れるという羽目に陥った。

細川殿の要請で義就追討の御教書が出て、勝負は政長殿の勝ちとなり、傷心の持国殿は亡くなられた。

ここで、赤松家再興と言う問題が持ち上がり、再興に奔走した勝元殿と宗全殿とは利害が対立して喧嘩別れし、宗全殿は義就派に乗り換えた。

山名宗全――― 一休禅師が「鞍馬山の毘沙門天の生まれ変わりで、戦争が何よりも好きな男」――― と評した希代の乱暴者と、細川勝元殿とが、両派に別れることは天下動乱の不吉な予兆であった。

宗全殿の工作で、義就殿に政長追討の御教書が下された。

今度は政長殿が河内に走った。政治的な決定をすることを好まず、無為に生きることを好まれる義政将軍には自分の意見というものは無く、状況によって正反対の意見を吐いても恥じない神経を持っておられた。

畠山一族の争いは本格化し、諸大名は両派に肩入れをした。

わしは細川殿と気脈を通じているために、細川方に与した。

 細川軍は東軍と言う。わしの弟国信と安藝の元綱も加わった。

細川勝元(摂津、丹後、土佐、讃岐 兵数六万)、細川成之(阿波、三河 八千)、細川勝久(備中 四千)、細川成春(淡路 三千)、細川政有(和泉 二千)、細川教春(丹波 二千)、細川道賢(讃岐 二千)、斯波義敏(越前 五千)、畠山政長(紀伊、河内、越中の一部 五千)、京極持清(出雲、飛騨、近江 一万)、赤松政則(播磨、美作、備前 五千)、富樫政親(加賀 五千)、武田信賢(安藝、若狭 三千)、その他同心の輩六万、合計十六万。

 対する山名軍、西軍の陣容はこうなっている。

山名宗全(但馬、播磨、備後 兵数三万)、山名教之(伯耆、備前 五千)、山名勝豊(因幡 三千)、山名政清(美作、石見 三千)、一色義直(丹波、伊勢、土佐 五千)、土岐成頼(美濃 八千)、六角高頼(近江 五千)、斯波義廉(越前、尾張、遠江 一万)、畠山義就(大和、河内、紀伊の内 一万)、畠山義統(能登 三千)、大内政弘(周防、長門、豊前、筑前 二万)、河野道春(伊予 二千)、その他同心の輩一万、合計 九万。

 京を舞台に二十五万の軍勢が、応仁の戦乱の渦を巻き起こした。

細川勝元殿は、義政将軍の御教書を得、将軍方の証としての御幡を与えられた、ために、われら東軍は官軍となった。

そのため、西軍に与した丹後守護一色義直は守護職を奪われ、わしが丹後の守護に任ぜられた。

応仁元年五月、わしはまず実相院を占拠し、ここを本陣とした ついで一色 義直の館を攻めて焼き、六月には斯波義廉の家臣朝倉考景と戦った。

この戦いで、わが方は八十人が討ち取られた。 朝倉はわが勢の首を肴に酒盛りをするという不埒な振る舞いに及んだが、その後、武田と朝倉は深いつながりを持つようになる。  これも因縁であろう。

細川殿に請われ、近江穴太に北白川城を築き、近江との通路を確保した。

七月、京極持清殿と斯波義廉の館を襲い、逆に西軍は実相院に攻め込んだ。九月には、安藝から参陣した舎弟元綱が畠山義就を攻めた。この戦いは義就の守り堅く、元綱は退いた。 わが本陣の実相院も焼けた。

この戦いで京の寺社は殆ど焼け落ち、公家屋敷も灰燼に帰した。

東軍の前線基地三宝院に陣取った弟の元綱は二千の兵で、五万を迎え撃って戦った。

翌年八月には山科に出撃し、深草、法性寺などで合戦を行った。この合戦で家臣の逸見弾正忠繁が討ち死にしたのは痛手であった。

京での東西両軍の戦いは一進一退で、いつ終るやも分からず、結末までに十年の歳月は要することになろう。
わしは、丹後の守護として家臣逸見駿河入道宗見をして、丹後に進行させ、制圧した。

文明三年(1471)、わしと戦った朝倉孝景・氏景父子は主君の斯波義廉に背いて東軍に寝返り、幕府によって越前守護職に任命された。

そして、わが舎弟元綱も西軍に寝返った。

 兄者よ、わしは戦いに明け暮れる一生を過してしまったようじゃ。
齢も五十一じゃ。畠山殿や細川殿、山名殿、大内殿などのように多国持ちにならずとも、天下に知られた一国持ちになろうとした。

さいわい兄者と一色殿を討ち、若狭守護となることができたが、若狭統治三十年を振り返ると、まだ やり遂げたい事が山ほどござる。

だが、あとは国信に任せよう。兄者が身罷られたとき、まだ三歳であった国信も三十を越す歳になった。兄者に似て 文雅、風流の世界に凝る癖があるのが気掛かりじゃが、よう言い聞かせてあるから大事はあるまい。
丹後の国も全部ではないが、貰い受けてござる。 ただ、あの義政将軍のこと、この戦乱がおさまり東西が和睦すれば、元に戻せと言うやも知れぬ。気が揉めることでござる。

末弟の元綱は西軍に寝返りおった。

幕府は元綱の安藝分郡守護を認めず、討伐の命を下された。わしも安藝の分郡守護として討伐じゃと声を荒げてはおりまするが、形だけのことでござる。

大内殿など強力な大名が居る安藝に攻め込む力を持つ大名は、東軍のどこを探してもおりませぬゆえ、安心でござる。

元綱は大内殿など周辺の大名に攻められ、安藝分郡をわしのために守ろうとして寝返ったのかも知れぬ。 この戦乱の時代に若い元綱がよう生きていると褒めてやって下され。

わしは、このところ体調思わしくなく、伏せる事が多くなり申した。幾許もない命やも知れませぬ。 兄者、待っていて下され。

第4章 完


 

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