若狭武田家の勃興 第5章 その1
若狭武田家の勃興5)武田国信の述懐 6)武田信廣の述懐 7)武田元信の述懐 8)武田元光の述懐 9)武田信豊の述懐 10)武田義純の述懐 11)武田信方の述懐 12)武田元明と龍子 13)武田信治の述懐 14)武田信重の述懐 15)求道の書家武田不識 文責 羽田孝文
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愚ニモ 尚治レト 思フ哉 武田国信の述懐長禄三年(1459)は旱魃であった。 この年の六月十九日と七月二十日に太陽が二つ現れ、ただでさえ暑い夏の日盛りが、燃えるような熱を放って空気を焦がし、民家の屋根は煙を噴いた。 人も獣も虫も干からびて水を求めたが、川にも木々の葉裏にも一滴の水とて無かった。 八月には、金色の太陽が宙点にかかって動かない日があった。 山々が鬱金色に染まり、川は金色の帯となった。 それを見て人々は、世の終わりだ! と手を合わせた。 九月には五十年来降ったことのない大雨が、鴨川を溢れさせ、民家を流した。 翌年の寛正元年(1460)、大飢饉が襲った。貧民は餓鬼となって草の根まで食いつくし、 飢え死にしたむくろは鴨川の川原に打ち捨てられ、川に浮かんだ死体は流れをせき止めた。 飢えて死んだ者は八万人にのぼった。 「帝が御所様をお怒りになったそうな」 だれ言うとなく噂が広まった。 京の町人はうわさ好きで、三日もあれば畿内に広まるほど伝播が早い。 「公方様も、これで少しは行いを改めなさるやろ」 残民争ッテ首陽ノ薇ヲ探ル 処々門ヲ閉ジ竹扇ヲ鎖ス 詩興吟酸タリ春二月 満城ノ紅緑誰ガ為ニ肥ユ 後花園天皇が八代将軍義政公に贈られたといわれる戒めの詩が、どこで聞き出したものか 都の辻々に貼り出された。 これで、政治も少しは良くなろうとの庶民の切ない期待が込められていた。 だが、義政公は一向に懲りた様子は無かった。贅をこらした好みの新殿を造営し、完成すればすぐに次の新殿の構想に没頭される。 それが生き甲斐であられたようだ。 義政公は世上の辛酸などに関心が無く、「満城ノ紅緑」が「誰ガ為ニ肥」えるかとの 帝のお嘆きも、人事のように耳をかすめただけだった。 まつりごとを如何に行うかというお考えを初めからお持ちでない将軍は、管領の細川殿や畠山殿、政所執事の伊勢殿などに全てを任せておられる。 「よきに計らえ」、「祝着」と言っておりさえすれば、政治はまわってゆく。 この頃、後に高倉御所と呼ばれる別邸を母の日野重子の為に造られた。襖は小栗宗湛に描かせ、一枚に二万貫をかけた。 米一石の相場が一貫文である。 同時に造られた、日野家から嫁がれて来た御台所の富子様の御殿は、屋根瓦に金銀や珠が塗り込まれ、昼は日に照り輝き、夜は月に仄めいた。この建築に六千万貫を費やした。 義政殿のご趣味は普請だけではなく、能、猿楽、連歌や物見遊山、寺社参詣、酒宴など およそ遊興で好まれないものはなかった。 しかし、民が苦しみに呻吟(しんぎん)しているとき、あまりにも贅沢が過ぎはしないかと宸襟(しんきん)を悩まされた後花園天皇にも、将軍を表立って戒められない事情があられた。 禁裏の費用の殆どは、足利幕府が山城、下野足利、摂津、河内の直轄領などから上がる貢納で賄われている。 また、洛中洛外には、酒屋が三百四十余軒あり、そのほとんどが土倉(金融業)を営んでいたが、富子様は最大の土倉であった。富子様が大名、公家、商人に金を貸し 利子を溜め込んだ莫大な財産から、内裏御修理や禁裏番衆の手当てなど 皇室費用が補われていた。 今や、足利幕府の財政は富子様の手中に握られていた。 贅沢は止めよと言われるのならば、主上におかれても御賢訳を と云われかねない悩みもある。 だが、主上は思いを漢詩に込めて、ひそかにたしなめられた。 義政殿は、寛正五年(1464)、世継ぎが生まれないとして、出家して義尋と名乗り浄土寺にいた三歳下の弟義視殿を還俗させて養子とし、将軍家を継がそうとした。 将軍職を譲るとの御諚を受けて義視殿はもとより喜ばれたが、不安も抱かれた。 「御台所にお子がお生まれになられたらどうなさる」 まだ義政殿は三十歳、御台所の日野富子様は二十三歳じゃ。 義政殿は十三歳で将軍になられてから、管領や有力守護大名の介入で思うにまかせない将軍の地位に倦んでいた。 太政大臣を辞めて出家し、北山第を築かれた三代義満公のように、絢爛たる美の境地に浸りたいとの思いがつのっておられた。 早く将軍を辞めて、自由になりたい。 だが、義視殿にすれば、口約束では安心できない。 「誓書を書けば良かろう」 富子様は当然の事ながら、反対された。すでに女のお子を産んでおいでじゃ。男のお子を産んで、将軍の母になることが生涯かけた夢であられた。 「お止めくだされ」 富子様の願いを聞き入れず 「男の子が生まれても、赤子の内に出家させる」 との誓書を義視殿に渡して納得させ、後嗣とした。 この年は、「寛正の大飢饉」と呼ばれる凶作、飢饉がおそったが、義政公は鞍馬寺修築に要する経費を調達する為、能の興行を京都糺河原で行われた。 さらに、この年蓮如が越前吉崎に一向宗の道場を建立、布教を始めた。天下大乱の予兆が既に現れておった。 翌寛正六年、正室富子様に男子がお生まれになった。 義尚殿である。 富子様は、わが子義尚殿を将軍の座につけるべく行動を起こした。 義視殿は、将軍の誓詞を盾に 畠山、斯波氏と並ぶ三管領家の一人、細川勝元殿を後見役となされた。 富子様は、我が子義尚殿の後見役を播磨、但馬、伊賀など 八か国の守護山名宗全持豊殿を頼まれた。山名氏は南北朝のころは、日本の六分の一に当たる十一か国を領し、「六分一殿」と呼ばれた大守護であった。 この義政殿の気の迷いとも、わがままともいえる焦りが、天下動乱の大きな要因となる。 この頃、畠山家には政長、義就の家督をめぐる後継者争いがあった。 畠山持国には実子が無く、弟の子の政長を養子としたが、愛妾に実子が生まれた。義就という。 持国は、わが子可愛さから家督を義就に譲る。これを端緒に、畠山家は家臣間の騒乱が起こり、将軍義政公や細川、山名など守護大名を巻き込む騒ぎとなった。 斯波家にも義敏、義廉の家督をめぐる後継者争いがあった。 これが義政将軍の嫡子義尚と弟義視の家督争いを巻き込んで騒ぎが膨らんだ。 応仁元年(1467)五月、応仁の乱が起こった。 義視殿を奉ずる細川勝元、斯波義敏、畠山政長の東軍と、義尚殿を奉ずる山名宗全、斯波義廉、畠山義就の西軍とに分かれ、守護大名がそれぞれの陣営に加わった。 われら武田勢は細川殿の東軍に加勢した。 応仁二年、相国寺を本陣とする細川勢に山名勢が攻めかかった。 この戦いで、関白一条兼良公が 戦火を避けようと相国寺に運び込んでおいた希少な和漢書が燃えてしまった。 北野神社、仁和寺、天龍寺、東寺なども焼けた。 西軍の暴慢な振る舞いを怒られた後花園天皇は、細川勝元殿に山名追討の倫旨を下され、東軍はこれで戦の大義を得た。 山名方の西軍が不利になると、富子様は義尚殿の後見を細川殿に変え、細川殿に見捨てられた義視殿には山名殿が後ろ盾になられた。 東軍の義政、義視、勝元に対して西軍の富子、義尚、宗全という構図が、 東軍の義政、 義尚、富子、勝元に対して西軍の義視、宗全という構図に変った。 こうして いつ終るとも知れない戦が、一進一退を繰り返しながら続けられていた。 長戦の為に東軍も西軍も戦費に事欠いておった。 武将達は、動乱の当事者である富子様の所へ、金を借りに行った。 理財の才の有る富子様は、東軍西軍の区別無く領国の規模に応じて金を貸し付けて利子を稼いだ。 わが武田軍も、軍費を用立てて貰ったことがある。 武将等は、その金で足軽を雇い、武具を購め、また東西に分かれて戦った。 応仁の乱の金をめぐる奇妙な風景が、そこにはあった。 文明五年(1473)の三月、山名宗全が陣中で没し、五月、細川勝元殿も没した。 十二月、大乱のさなかに八歳の義尚殿は元服して将軍となり、義政殿が政務をとられた。 義政殿と御台所の富子様は、翌年三月新築した小河御所に移った。 「だまされた」 義視殿は歯噛みをなされた。 だが、日野家から富子様の妹姫を妻に迎えた義視殿は、生まれた子を将軍にするために 執念を燃やす事になられた。 都も地方も騒然としている。山城、近江には馬借一揆が起こり、文明六年には加賀の一向一揆が守護代を殺害した。 廃墟と化した京の町を悲しんだ飯尾彦六左衛門尉という武士が、思いを詠んだ。 汝ヤシル 都ハ野辺ノ 夕雲雀 アカルヲ見テモ 落ルナミタハ --- つづく --- |