若狭武田家の勃興 第5章 その2
若狭武田家の勃興5)武田国信の述懐 6)武田信廣の述懐 7)武田元信の述懐 8)武田元光の述懐 9)武田信豊の述懐 10)武田義純の述懐 11)武田信方の述懐 12)武田元明と龍子 13)武田信治の述懐 14)武田信重の述懐 15)求道の書家武田不識 文責 羽田孝文
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愚ニモ 尚治レト 思フ哉 武田国信の述懐文明九年(1477)、戦いに倦んだ西軍の周防、長門、筑前、豊前守護大内政弘が帰国した。 他の有力諸将である土岐成頼、畠山義統らも自邸に火を放って京都を去った。 義政公に誓詞を反故(ほご)にされたが、西軍の大義の旗印となった足利義視殿も成頼を頼って美濃国に下り、応仁の乱はほぼ終息した。 永享十二年(1440)、一色義貫を誅して若狭一国の守護大名になられた信賢殿に従い、わしは東軍の細川勝元殿の東軍に与して戦った。 西軍に与したために丹後守護 一色義直殿は、応仁元年幕府によって守護職を奪われた。 信賢殿は丹後守護を兼ねることになった。 「これで武田家も、圧しも圧されもせぬ大名になり申した。御目出度うござる。」 被官たちが、信賢殿に口々に祝いを述べた。 だが 一色側国人は激しく抵抗し、容易に領国を明け渡そうとしなかった。 信賢殿は被官の逸見駿河入道宗見に丹後制圧を命じた。宗見は丹後山田城に拠って、一色勢を掃討した。 若狭と安藝分国の守護大名の武田家が、新たに丹後を手に入れ、多国衆として一歩を踏み出しはしたものの、これが苦難の幕開けになったことを、後で痛切に思い知らされることになる。 応仁の戦いの最中、領国経営を信賢殿の父信繁様に任せている秋で異変が起こった。 戦が始まると京に上ってわれわれに助力し、華々しく戦った舎弟元綱が 西軍に走ったのじゃ。 京での戦は地方に波及して行った。 安藝の領国が西軍側に侵食されているとの知らせを受けた信賢殿は、元綱を急遽安藝に帰した。 そして信賢殿に届けられた知らせが、「元綱寝返り」である。 しかも、郡代を殺し、西軍が擁立する足利義視殿に安藝四郡の守護に任命されたという。 「なにっ! 元綱が寝返ったと! 義視殿に守護を任命する権限などないわい」 陣中で知らせを受けた信賢殿がうめいた。 東軍側は将軍義尚公に奏上して、武田元綱追討の御内書を賜った。 剛直な武将である信賢殿は、自ら兵を安藝に進めて討ち従えると息巻いた。 「よその軍勢が元綱を討ったとせよ。安藝四郡は恩賞として、その者の手に入るではないか。 黙って見ている訳には参らぬ」 わしは、兄を宥(なだ)めた。 「お待ちなされ、元綱が好んで敵側につくことはありませぬ。訳あってのことでござろう。しかもよいことに、いまの東軍の中に、西軍の勢力が強い安藝に攻め込む余力の有る軍勢はありませぬ。」 大乱の余波で、安藝でも領主の一族が抗争していた。 安藝の有力領主小早川家では、本宗家沼田小早川家が東軍方、竹原小早川家が西軍方について争った。 西軍の頭領山名宗全の次男、備後守護山名是豊が東軍について、この争いに加わるなど、中国地方の戦いは各領主の利害が複雑に絡み合って続いた。 結局、文明七年(1475)沼田小早川氏は敗れて、山名是清も備前から追放され、中国地方は大内氏を中心に西軍優位となる。地方の抗争は、京での争いが終息しても延々と続いた。 元綱は、この抗争に巻き込まれ、西軍優勢の中で領国を守る為には、西軍に降らざるを得なかった。 信賢殿は幕府に元綱の寝返りは故あってのことと陳弁し、幕府は願いをいれて、安藝四郡を安堵し、あわせて元綱の守護職は認めぬとした。 寝返りは各地で起こった。 応仁二年(1468)、猛将といわれた朝倉孝景殿は、東軍の斯波持種の屋敷を襲い、われらと一戦を交えた。 文明三年(1471)、細川勝元殿から越前守護職を与えるから寝返れ と調略された朝倉殿が、東軍に変った。 朝倉氏は越前守 護斯波氏の被官であった。かねて内紛が絶えなかったものの、主家の越前守護斯波氏は名門じゃ。朝倉殿は一介の地頭上がりに過ぎぬ。守護職には足利家に縁のある家系がつくことになっている。 「足羽川のほとり 一乗谷あたりの山猿が越前守護になったと! 天下も末だわ」 と嘆くものもいれば、 「これが下克上というものよ」 と うなずく者もいた。 下克上とは、建武中興の後、京都二条河原に立てられた「下克上スル成出者」という落首が始まりだ。 主を裏切った朝倉殿は越前では悪逆無道の人非人とそしられ、国人衆の反抗を受けた。 幕府の命で、わしは朝倉殿救援の為敦賀に着陣した。 この年六月二日、信賢殿は燃え尽きるように五十二歳でこの世を去られた。 大通寺殿大人宗武 わしは家督を継ぎ、若州武田家の当主となった。 文明六年(1474)四月、東軍と西軍の和議が成立した。 西軍が消滅し、東西に分かれて争った守護の同盟は崩れた。 大名、小名は領国へ引き上げ貢納もせず、公儀、在京の役も勤めようとしなかった。 その中で、在京する細川殿の惣領家である京兆家は、幕府、将軍家との結び付きを強めておられた。 能狂言の興行を催すなど、将軍家に取り入る為にさまざまな手を使われておられた。 われら若州武田家は、大乱後の厳しい状況を生きのびる手立てとして、細川家と同じ生き方を選んだ。 実力を持たれた日野富子様やその兄日野勝光卿に近づき、幕府外交には配慮を怠らなかった。禁裏への寄進も欠かさず、公家衆との交際にも気を配った。 だが、信賢殿が憂慮していたように、将軍義政公は われらが応仁元年に拝領した丹後を、先の守護一色義春殿に返還するように命じられた。 わしは畏(かしこ)んで拝受し、急ぎ若狭に帰った。 すでに若狭経営に取り掛かっている被官たちは、小浜に集まってきた。 彼等はあくまでも異を唱えた。 「信栄様、信賢様の若狭入部いらい、三十年にわたり、われらが一色の残党や百姓どもの一揆と戦ってきた事を、お館様はよもやお忘れではあられまい。若狭平定は かかって我等のご奉公があってのことでござる」 「丹後守護を兼ねられたお館様の為に、この八年、われら被官は命に服さぬ丹後の一色残党を斬り従えて参った。これまでに失った人命と、費やした軍費は莫大でござる。 いま 若狭に引き返せとは、いかなることか! 我等のこれまでの忠節を無になされるおつもりか。 ご存念しかと承りたい」 被官たちは語気鋭く、わしに迫った。 彼等の気持ちは、わしにもようく分かっておる。 彼等は戦費の全てを賄っている。 甲冑、刀、馬、馬具の工面もするし、長滞陣では兵のための米、茶、干し柿を買う銭もばかにならぬ。兵の補充もせねばならぬ 何よりも合戦 では命をかけ斬り合い、死線を彷徨(さまよ)うのだ。 とくに逸見一統は眦(まなじり)を決していた。 四年前の文明二年(1470)七月、山科での合戦で東軍は敗れ、逸見党の頭領逸見繁経が討ち死にした。 応仁の乱では一族挙げて戦ったという自負がある。 --- つづく --- |