若狭武田家の勃興 第5章 その3
若狭武田家の勃興5)武田国信の述懐 6)武田信廣の述懐 7)武田元信の述懐 8)武田元光の述懐 9)武田信豊の述懐 10)武田義純の述懐 11)武田信方の述懐 12)武田元明と龍子 13)武田信治の述懐 14)武田信重の述懐 15)求道の書家武田不識 文責 羽田孝文
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愚ニモ 尚治レト 思フ哉 武田国信の述懐「一色義春が守護として帰還の報に、丹後中は喜びに沸き立ち、一色勢は軍勢整えて我が方の砦を圧し囲む構えでござる。 我等もとより城明け渡して若狭に帰る気は毛頭ござらねば、城を枕に討ち死に致す覚悟。それで、よろしうござるな」 と、無礼にも主君を恫喝(どうかつ)するが、斬り捨てるわけにもまいらぬ。 若州武田家は逸見、粟屋、内藤、熊谷、山県などの被官たちに支えられて成り立っている。 被官の信を失えば、主家は危機に陥る。だが、いま将軍家の命に逆らったならば、守護職没収の沙汰になるのは目に見えている。 「武田家はいま大事な時にある。そなたたちの功績には十分に報いるによって、丹後は諦めてもらいたい」 と、わしは被官たちに翻意を迫ったのだが、それが彼等の激高に油を注いだ。 「お館様は、それほど都の白塗り公家や、将軍取り巻きの腰抜け侍に気を使われるか。それなら我が方にも考えがござる」 功には報いると言われても、若狭の内で満足な領地を拝領出来ぬだろうと、彼等はわしの懐中を見透かしておる。いま経営している丹後の土地のほうが地味肥えて豊かだ。長い戦で費えた金を取り戻すのは、丹後の土地しかないと考えている。 気まずい空気が流れた。 「こうなさったらいかがか」 丹後の武田勢の総帥ともいうべき武将で、丹後山田城を守っている逸見党の頭領、逸見駿河入道宗見が口を開いた。 逸見入道は安藝分国守護だった信栄殿に仕えた旧臣で、武田家の柱石ともいえる武将であった。 「お館様のご言い分ももっともでござる。また、被官どもの言い分にも理がござる。 斬り取った丹後の地から、おめおめと引き返すなどは部門の恥でござれば、我らは動きませぬ。一色勢が攻め寄せれば血祭りに上げるだけでござる。 そこで、お館様にお願いでござる。我らの動きを知らぬ事にして頂きたい。 将軍家からお咎めあれば、武田勢は夜盗、一揆の輩に退路を断たれて引き上げ叶わず、いま一刻のご猶予をと申し上げ、時を稼いで頂とう存ずる。 将軍家も、この先どう変るやら、わかったものではございませぬ。 我が勢が二年も丹後に留まれば、一色義春が地団太踏んだとて、丹後はわが分国と同様になりましょう。 三年もすれば、一色守護などというものは、消えてなくなりましょうぞ」 「それはご名案じゃ」 双方の顔を立てた申し状に、被官たちは手を打ってするが入道を誉めそやした。 それで 決めるしか無かった。 「じゃが、幕命は下った。いまや大義は一色にある。一色勢は死に物狂いで攻め掛かってまいるぞ。その方たち、勝てるのか」 「何のご心配ご無用でござる。たかが一色の千や二千、たちどころに蹴散らかしてご覧に入れようぞ」 被官たちは、その日のうちに意気揚々と丹後の持ち城に帰って行った。 この年五月、戦端が開かれた。 一色勢には不法にこの国を占拠する武田勢を殲滅(せんめつ)するという大義が有る上に、義貫殿を謀殺した武田への憎しみがある。 将兵、足軽から百姓にまで戦意が高まった。 わが被官たちは、燎原の火のように国中に広まった一色勢の戦意を軽く見過ぎた。 死を恐れぬ将兵が火の玉のように攻めかかり、山田城の逸見宗見は多数の城兵を失い窮地に陥った。他の城を守る武田勢も攻め立てられた。 「一刻の猶予もなりませぬ。速やかにご援兵を」 戦況を携えた逸見の家臣が、早馬で若狭小浜の武田館に駆け込んだ。 「援兵など出来ぬ。こたびの戦でのわしの仕事は、知らぬ振りをすることだ。其方も心得ておろう」 「ではござりまするが、このままでは山田城を守る将兵が全滅いたしまする。なにとぞ ご慈悲を持ちましてご援軍を」 「できぬ」 わしは冷たく言い放った。 一色義春殿が幕府に訴え、丹後の武田の手の者は速やかに陣を引き払えとの幕府の命が、わしの手元に重ねて届いたばかりであった。 そばに控えていた被官が吠えた。 「お館、我らはいつにてもお館の馬前にて死のうとの覚悟で、ご奉公して参りましたぞ。この三十年、一族で討ち死にした者は数知れずおりまする。臣下の道あれば主の道もござろう。いま逸見入道を見殺しになされたら、武田家の行く先安泰とはいきませぬぞ。それでも援兵を送りませぬか」 わしは沈黙した。長年若州武田に尽くしてくれた逸見入道の討ち死には、身を切られるほど辛い。御館は股肱の臣の危急を救われず、むざむざ見殺しにしたと、被官どものわしを見る目が違ってこよう。 だが。援兵はどうあっても送れぬ。 「されば、この度 復命し、逸見入道殿とともに斬り死に致す」 と、青ざめ 怒りを面に表して使者は、馬を駆って丹後を目指した。 山田城を包囲した一色勢は城内になだれ込み、逸見駿河入道宗見は城に火を放ち、腹掻っ捌いて果てた。 逸見一族の態度は一変した。 わずか数年の内に頭領を二人も失い、一族に活気が失われた逸見党は 深い憤りを秘めた冷たい眼差しを、わしに向ける事がある。 愚ニモ 尚治レト 思フ哉 角乱レタル 世ヲハ厭ハテ と、詠まれた足利義政公を、わしは懐かしく想い起こしている。 天下が平らかになるどころか、地方に波及した争いは全国に広がって収拾が付かず、将軍の権威は地に落ちている。 富子様は蓄財に余念が無い。 室町幕府の御料所のうち近江の舟木関、佐々木西庄、山城梅津西院庄が、富子様の御料所であったが、舟木関だけでも年に七百二十貫の収入が有る。大小名からの進物、礼銭、賄賂の額も大きい。 内裏の修理費用の為、幕府は京都七口の諸口に關銭徴収のための関所を設けた。北陸道に通ずる大原口、東山道の白川口、東海道の粟田口、南海道の伏見口、西海道の鳥羽口、山陽道の東寺口、山陰道の西七条口などに立てられた関所は、怨嗟(えんさ)の的となった。 この上がりも、富子様の懐に入ったという。 御所の中では、将軍義尚公は義政公の愛妾徳大寺氏を奪って親子の仲はこじれ、また男色に耽り「昼は一日御寝、夜は御所中昼の如し」といわれるほど、酒色に溺れていなさる。 傾いた幕府の屋台骨を支えたのは富子様ではあったが、大乱中に後土御門天皇との密通の噂がたてられてからというもの、義政公とは冷え切った仲になっておられる。 愚ニモ 尚治レト 思フ哉 わしは義政公の御歌を口遊んでみた。 この方は深い悲しみの中におられる。 幼くして将軍となり、激しく勢力地図を塗り替える管領や有力守護大名の傀儡(かいらい)のようになって、まつりごとをしてきた 癒しようのない心の空洞を抱え彷徨っておられる。 将軍義尚公の御母堂として権勢を振るっておられる御台所の富子様にも、あのお方の心の空洞を埋めることは出来ない。 現の人にも物にもすべて興味が失われ、現の向こう側にある確かなものにしか心を惹かれないのであろう。 うそうそとしていない確かなものとは、光の様な感覚であり、光彩を放った感覚が作り上げる 美 そのものなのだろう。 義政公の普請は御趣味ではなく、命をかけた美の発現であられた。 猿楽能、連歌、茶の湯、唐物見立て、立花(りっか)もそうなのだ。 義政は政治を顧みることもなく、民の辛苦にも頓着せず、ただひたすら風雅、隠遁を志しておられると、畏極みも胸を痛められ、世情のうわさも険しい。 それを義政公はご承知でいられる。だが、耳をお貸しになることはあるまい。 放下なされたのじゃ。 今、義政殿は作庭の名人善阿弥を相手にして、新しい美と幽玄が混然と溶け合った庭を、東山に造る計画に余念が無いとか。 わしの体を得体の知れぬ魔物の様な風が通り過ぎた。 たしかに、それは魔物と言うしかなかった。 わしは嫡男信親を招いた。 「其方は何歳になった」 「十七歳でござりまする」 「若狭はこれより其方に任せるゆえ、心して励め」 「父うえ、それがし、まだ修行中にて、そのような大役果せませぬ」 「いや、わしは遁世するによって、其方に全てを与えたいのじゃ。決めかねる事は相談にあずかろうぞ」 「しばらくお待ちを。遁世とは何のことでござるか」 「言っての通りよ。出家いたす」 げっ と言ったまま、信親は絶句した。 「父上は確か三十六歳のはず。そのお若さで出家とは亦何と」 「無常よ。だが其方はまだ若年、しっかりと後見するによって心配する事はない」 わしはまもなく出家した。 法名宗勲。 わしは将軍義尚公の御相伴衆として、御所に招かれた。 犬追物を興行して将軍義尚公にお見せしたり、公家、守護、守護代らと交わった。公家を通して禁裏とのつながりも持った。これはすべて、信親たちの若狭統治に役立つものである。 文明九年正月、赤松被官と武田被官の喧嘩沙汰が収まらず、将軍家が介入したという騒ぎを除いては、三、四年は何事も無く過ぎた。 出家したといっても、御相伴衆の仕事もあり、若い信親の補佐もせねばならず、義政公のような澄明なお心を持つには至らぬが、歌詠みの道には打ち込むことが出来た。 「新撰兎玖波集」の編者宗祇殿とも交遊し、歌一首を宗勲の名で選んで下された。 三条西実隆殿には多くを学んだ。 文明十二年(1479)三月には大納言飛鳥井雅親卿を若狭へお招きして、高成寺塔頭の瑞雲院で歌興行を行った。 高成寺は小浜の青井山の東山裾にある臨済宗の寺じゃ。塔頭は四十四院あり、瑞雲院は高成寺開山 大年法延の法嗣 雲岩が開いたもの。雅親殿も気に入られて、歌興行は満足できる出来栄えであった。 雅親卿が京に帰られるときには、この文人と離れがたい思いに駆られ、日笠までお見送りをし、京での西海を契りつつお別れしたのであった。 文明十五年(1483)正月、幕府が山城守護 畠山政長殿を罷免して、わしを任命するとの御沙汰があったが、出家遁世の身なればお断わり申した。 翌年十一月初め京都で土一揆が蜂起した時には、細川政元殿の軍勢とともに出動して鎮圧に当たった。 文明十七年(1485)、わしの身辺に思いもかけぬことが起こった。 嫡男信頼の突然の死の知らせを京で受けたのだ。二十八歳だった。 わしの身勝手な遁世が、蒲柳の質だった信頼に重荷を負わせた為であったのかと、悔恨に責め苛まれた。 明日の歌会を控えて歌想を練っているときに、信頼は遠く小浜で息絶えたのだ。 義政公ならばどうなさるかと、わしは思った。 義政公ならば身じろぎもせず、歌想を練り続けるだろう。悔恨なさることもありますまい。 義政殿のような孤独の闇を見据えてたじろがない、美の行者になるには修行がまだまだたりぬ。 わしは家督を次男の元信に継がせた。 二年後の長享元年(1487)九月、領国内の寺社領や将軍家臣らの所領を横領し、返還すべしとの幕命に従わない近江守護六角高頼を討伐すべく、将軍義尚公が直々に近江に出陣したときには、わしも「御相伴衆」として元信とともに若狭勢を率いて参陣した。 閏十一月、義尚公は鈎の陣に雅親卿の弟飛鳥井雅康殿を招かれ、安養寺で三十首続歌を張行した時には、わしも一首詠じた。 さきてふる雪にもやすくこえ行や みちのまさしきあふ坂の関 義尚公は陣中で病気になり、母の富子様も琵琶湖を渡って看病に来られたが、同年三月に世を去られた。 義視殿の出番がようやく巡って来たようだ。 --- 第5章 完--- |