HOME > 武田信春回想録

武田信春回想録

若狭武田家の勃興

1)序章

2)系図

3)系図は何故作り変えられたか

4)武田信賢の述懐

5)武田国信の述懐

6)武田信廣の述懐

7)武田元信の述懐

8)武田元光の述懐

9)武田信豊の述懐

10)武田義純の述懐

11)武田信方の述懐

12)武田元明と龍子

13)武田信治の述懐

14)武田信重の述懐

15)求道の書家武田不識

文責 羽田孝文

序章

若狭武田家の者が若狭武田家に付いて外部に対して何かを語ると云う事は私しが初めてで御座いましょう。

何故なれば、我一族が室町末期に織田信長氏豊臣秀吉氏に因って滅ぼされてからは、若狭武田氏は「名」を捨て「歴史」を捨て儒学者・医師として、生き残る事を専らとしてきた所以であります。

「織田氏」「豊臣氏」に因って滅ばされた直後は「名」よりも「歴史」」よりも只々「血脈(けちみゃく)」を保つのが専決で有ったが為で御座います。

この事に関しては別章で詳しく書くことに致します。

では「何故今?」

と言う事になりますが!

昨今、武田家に関する研究が夥しい人々に依って為されその著書の数も驚くばかりである。

然し、これが問題です。問題なのは「武田家に関する著書」が増えれば増えただけ誤った武田家の歴史が作られ、其れが「真実として一人歩きを始めた」と言う以外に他有りません。

一人の研究者が誤った知識で著書に著し、それを次の研究者が「鵜呑み」にして自分の著書に書き入れる。これがまた次の研究者によって「実(まこと)しやか」に著書にされる。

この愚劣極まりない研究とやらが繰り返えされ、その結果「武田家の歴史」が「真実とは遠くかけ離れた」とんでもない歴史が「作文され」「塗り替えられ」てしまって居るのです。

私はこの現実を危惧しここに数百年に亘る沈黙を破り「敢えて」自身の責任に於いて後世に「若狭武田家の真実を残すべく」記録を著すことと致しました。

若狭武田家 三十四世
源武田獵徳院信春

 

 

求道の書家 武田不識

武田不識(名は信春)は昭和十六年一月父の故郷 福岡県八女市に生まれ、愛媛県で育った。

彼の特異な人生は、生まれながらにして茶の湯・禮法、馬術 弓術、さらに合気の術からなる若狭武田流 「道統四門」 の後継者と位置づけられたことからはじまる。

若狭武田家の淵源を尋ねると、清和天皇に遡り源満仲、頼義 その嫡子 新羅三郎義光からニ代下った駿河守・従五位下 信義に 至って 姓を武田となし、その子孫は代々伊豆守を襲い、その五 代後の信宗に甲斐・伊予守が加えられた。

その嫡子甲斐守・安藝守 氏信の弟信成の七代後に武田信玄晴信が出る。

氏信三代後の国信に至り若狭守護を冠せられ、その九代後の 修理太夫信春に至るまで、武田家は高家として禮法を司どるほか 建仁寺、南禅寺、天竜寺、東福寺、相国寺等の管長をつとめ、室町時 代終焉にまで及ぶ。

武田一族に、姓を武野に改めた紹鴎(武野紹鴎=武田新五郎)が おり、その茶の道は千利休に伝えられて形は変えられたが、室町 将軍家や、御所で嗜まれた「茶之湯禮法」の本流は、今も武田家に 「一子相傳」として脈々と傳承されている。

武田家二十二代信治の嫡子信重は 藤原惺窩、建仁寺二九三世 英甫 永雄(雄長老)を師として儒を学び、後 医師として 後水尾帝 同皇后、徳川将軍家、紀伊大納言、尾張大納言、水戸大納言家 加賀大納言家 等の脈を取り 悉く快癒せしめた。

その後 後水尾帝 皇后が危篤の折 これも快癒せしめ、その功により 「紫衣」 と共に「獵徳院」の院号を賜り、これより後「獵徳院」の 院号と 「紫衣」は若狭武田宗家に代々「世襲」されてきた。

獵徳院信重から二十九代杏菴まで、宗家及び分家(長春院) は明治の廃藩置県に至るまで天皇家・幕府の奥医師として仕えた。

武田不識、は三十三代春月尼(母)より「宗家三十四世」としての 教育を受ける。

春月尼は不識の神気が失われるのを恐れて小学校に行かせなかった。

六歳で臨済禅宗の寺で得度させ(安名=永猷 (安名とは禅宗で出家 得度 の際、戒師 が法名を授けること)禅学を学ばせた。

六歳から十三歳まで 毎日 「漢籍」=主に孔・孟・荀子・陽明学、軍学 、 帝王学、韓非子、孫子 等々、座学は六時間に及んだ。

然し、不識十三歳の時「子供を就学させないのは義務教育違反である」と 指導され 仕方なく 不識が 十三歳の時(中学二年生)、県の教育委員会の 命令で 小学校五年生に編入させられた。

若狭武田家 道統四門 を継承させるべく独自の教育をして来たが ここにその教育の方針を大きく変化させざるを得ず、以後 春月尼は時間を惜しんでは、毎日 古今和歌集等から三首選び 自ら「草書」で書いて手本と なし、不識に与えた。

この教育方法は 不識六歳の頃からの ものでもあった。この為 不識は幼児より硬筆を持った記憶が無い。

現代の日本の「茶道」と言われる流派は家人点(軽輩 下級武士等に許されて いた茶の点前 = 「詫の茶」 であるのに対し 若狭武田家の茶之湯禮法は 「貴人点」である。

この「貴人点」とは 天皇・公家 ・上級武士 等が点てる茶之湯で、当時は 許しが無ければ勝手に茶を点てる事は禁じられていた。

昨今、この「貴人点」を「武家茶」と称する者も居る様だが 若狭武田家に 伝承される「貴人点」とは 全く趣を異にした「茶之湯」である。

武田家に伝承されている「茶之湯」とは「若狭武田家禮法」の「饗応の禮」の 一部である。

つまり茶之湯を行うには「禮法全般」を完全に修得しなければ、 「薄茶」の一杯も点てる事は不可能なのである。

今日、巷の「礼法の先生」・或いは「専門家」と自称する輩が、この何千年 と言う時をかけて「大和の文化」を育み永々と傳えて来た先人たちの努力を 浅薄な知識と我欲で以って葬り去っておるのが今日の有り様なのである。

茶之湯 然り !

茶碗の中に指を突っ込み 且つ 敷物の上に直に置き供する無様な作法などは、今日途上国ならいざ知らず、先進国において この様な食事の作法が罷り、通っておる国が有りましょうや?

食事の有り様も 又然りツ! 犬食い..!。舐り箸.. ! 探り箸..! 等々 数えれば限がない。

これ等の責任は全て「浅学の輩」に有ります。浅学の師は単に西洋の作法と日本の作法を「ごちゃまぜ」にして我流を考案し、誰も知らないことを良いこととして知識人のふりをし、著書を著し、出版し、或いは人前で講演をなし、何がしかの「金品を得る手段か」としておるにすぎません。

武田流茶之湯禮法は 陽 三六〇点前 陰 三六〇点前 家人点 六十点前の 合計 七八〇点前がある。

つまり 朝に「陽」の点前により 神仏と先祖に、 茶を献じ 夕に「陰」の点前により同じく神仏・先祖に茶を献ずるのである。

この 陽の点前 陰の点前 を毎日 一点づつ 点る中に 武田流禮法の 作法が全て織り込まれて居るのである。
(これ等は全て一子相伝・口傳である) この 武田流茶之湯禮法 を修得する努力は並大抵のものではない。

何故ならば この武田流茶之湯禮法は鎌倉時代に於いて時の将軍頼朝の命に拠り以前から行われてきた大和の諸禮を集大成し武田家が編纂し、後世に 伝承して来た日本人の「文化の源」なのである。
(因みに 伊勢貞丈は 「小笠原流 武田流 又 伊勢流 等はなく 強いて「何々流」と申すのであ れば、清和流・御所流 と申すのが妥当であろう」と言っている。)

ここに於いて武田流禮法は我等「大和民族」の「生活習慣の集大成」の記録 であり、武田家に拠って伝承されて来た「禮法」であると言う事が、はっきりするのである。

それを浅薄の輩が、自己満足のために変化させると言うことは文化の伝承を 愚鈍に破壊する行為である! と言わざるを得ない。

佛は言う  「諸悪莫作・衆善奉行」 と …! 諸悪を為す事なかれ! 衆は 須く善を行い奉れ … !

不識 九歳の時 母春月尼は馬術・弓術・合気術を学ばせる。
山野の朝の光が、爽やかに波打った瞬間、飛天のように黒髪をたなびかした春月尼が、疾走する 馬上に仁王立となり 強弓に矢を番えて射放った矢が、宙空を切り裂いたのを 不識は 今も鮮明におぼえている。不識も 春月尼に負けじ とばかり母と野山を馬で駆けた。

昭和四十年、母 春月尼は 不識 二十四歳のとき、武田流の「印可」を与え、 「若狭武田家三十四世」を継がせ、宗家院号の「獵徳院」をなのらせる。

その 偉大な春月尼も 不識 三十七歳の時 示寂した。

不識の左手には 今も母 春月尼の指輪がその光を失わず輝いている。

平成二十年五月 「若狭武田家の勃興」 著者

 

Web Creator Palf International Japanese KATANA Amata Akitsugu Official Site Japanese Nishikigoi Farm Matsuda